本の話7「坂の上の雲」
最近、何年も読みかけだった長編小説をいくつか読み終わることができました。
私はこの小説を本当に面白く感じました。
なぜ面白かったのか考えてみると、それは、今とは時代背景が全然違うのに、そこに生きている人たちにはなぜかとても既視感があったからだと思います。
かれが水兵の人望を得ていないのは、粗暴で怒りっぽいということではなく、マカロフ中将のように有能で捨て身の精神をもった提督ではないということを水兵大衆がそのするどい嗅覚でかぎわけきっていたからであろう。
戦場へひきだされてゆく水兵たちにとって自分の提督に期待するのは優しさでも愛嬌でもなく、ただひとつ有能であるということだった。(7巻、p359)
あーーー、分かる、とてもよく分かる!
例えばこの部分を読んだとき、私はあっさりロシア水兵の一人になってしまったのでした。
私の会社は戦場とはとても言えない平和な場所だし、仕事に向かうことは戦いに向かうことでは当然なく、命を落とす危険もありません。
でも、この水兵たちと同じ目で上司を見たことがあるし、私も見られたことがある、と思いました。
この部分以外にも、ああ、こういう上司いた(いる)な、とか、上司と部下のミスコミュニケーションはこうやって生まれるのか、とか、この展開は残念だけど会社でよく見る気がする、とか、どこを読んでも自分の会社での人間関係や、ニュースで取り上げられる他の会社や官庁の不祥事に通ずるものを感じてしまいました。
そうやって、今の社会との共通点を感じていくうちに、今まで私は歴史上の出来事について、どこか他人事というか、すごく曖昧に捉えていたと思いました。
例えば、戦争ということについてもそうです。
日露戦争に勝った、とか日本海海戦に勝った、とか個々の事実は知っていても、そこまでに至る過程で、具体的に誰がどのようなことをするのか全く想像できていませんでした。
断片的な情報は持っていても、社会の中で様々な仕事に従事する個々の人が、別々に、そして同時に動いているイメージを具体的に伴って理解できていたわけではなかったと思います。
具体的にイメージするためには、その情景が想像できなければなりません。
そしてそのためにはまず、多くの情報を得ることが必要です。
例えば、日本海海戦を戦うまでの経緯について考えるとこうなります。
ロシアは艦隊をヨーロッパから喜望峰を回って日本海まで移動させて日本海海戦に至るのですが、仮にそこまで知っていたとしても、それが当時の世界でどれだけの重み・意味を持つことなのか、全く分かっていませんでした。
長い航海の中で、船の上の船員たちが毎日何を考え、士気がどんなことで上がり、途中でどういう事情で寄港し、寄港するためにはどんな条件が必要で、そこにイギリスが日本の同盟国であるということがどんな影響を及ぼしていて、船員たちは上陸したら何をするのか、情報はどんな風に入ったのか、船内の上司部下の信頼関係はどんなだったのか、そこまで知って初めて、想像できるようになります。
また、どういう出自の人が、どんな能力や考え方を持って、どんな経歴を歩んで、どういう仕事について、その仕事は当時の人たちからはどのように見えていて、その人は日々何を食べて、何を考えて、何に悩んで、周りにはどんな人たちがいて、どんな服を着ていて、どんなことが余暇の楽しみで―そういう、ある意味卑近な、生活目線の情報もとても重要です。
というのは、そうした情報があればあるほど、自分の生活や今の人間社会から、書いていない部分も含めて自分なりに推測することができるからです。
これはとても大事な部分です。
なぜなら、小説である以上、作者に意図があって創作した部分や、史実の認識が誤っている部分、はたまたそもそも記録に残っておらず真相が分からない部分もあるかもしれないからです。
そして、これは何も小説に限った話ではありません。
程度や確率の差こそあれ、どんなに権威のある歴史書も論文も、その研究成果が、今後長い将来にわたってずっと正しいとは限りません。
インターネット上の記事も同じで、世の中の全ての情報と言う情報が、いつも間違っている可能性をはらんでいます。
それでは、正しいか正しくないか分からない情報を摂取することが無意味か、と言うとそうではないと思います。
そもそも、100%綺麗な情報なんて存在しないのだから、食わず嫌いしないでひとまず食べてみるしかないというのも、もちろん大きな理由です。
でも、それ以上に、私は、理解するということは、必ずしも、正しい情報を知るということではないと思っています。
そして、世の中には、正しくても知る意味の乏しい情報もあると思うのです。
情報を知るということ自体にさしたる意味はなくて、そこから何を導き出すのか、どう生活に使えるヒントを得るのか、ということの方が大事だと思います。
100%作り話の小説を読んで考えさせられたとして、その考え自体が無意味かというと、そんなことはないのと同じです。
と、ここまで熱く語っているのは、「坂の上の雲」について、歴史的事実を誤認させる恐れがあるから、作品としても良くない、という評価を目にしたからです。
確かに、一つの文章に対して、いろいろな解釈の仕方ができる余地があるのが文学の持ち味だと考えれば、「坂の上の雲」は文学ではないと思います。
どちらかと言うと、この本は、作者の目で捉えた現実と、それに対する評価をまとめたものです。
とはいえそれが、本自体の価値を損なうかというと、そうではないと思います。
ついでにもう一つ書いておくと、巻末の解説で、特定の軍人にのみ偏った高評価が与えられているのが難点だ、というような記載があって、それに対して私は正直、心底、幻滅してしまいました。
どんな本も、人の手で書かれたものである限り、何にも偏らない本なんてないと思います。
それを前提に、読者が同じテーマの多くの本を読んで、それぞれ勝手に考えるべきことで、作者に一つの公平な本を書け、というのは全く的外れだと思います。
そして第一、何にも偏らない本など、本当につまらないと私は思います。
批判を恐れて作者なりの意見や評価を何も語らないのであれば、それは教科書のようなものです。
事実を知ることが出来ても、事実を知る意味は達成しにくいと思います。
もちろん、自分なりに考えることをせず、ただ初めて、唯一読んだ作者の考えに染まってしまうのは、あまりに考えなしです。
だからと言って、作者ならではの解釈や評価や意見が何もないものを読んで、自分で0から情報を収集して考えるのは、そのためだけに何年もの時間をかけなくてはならないくらい、大変なことです。
だからこそ、そのために時間を費やした多くの作者の力を借りて、作者の評価とその根拠となる情報を知って、それを土台に考えることで時間を節約するのが現実的な選択になります。
目的はあくまで、自分の人生に有用な何かを得ることであって、その分野に精通することではないからです。
たしかに、中には偏りすぎているくらい、バランス感覚に欠けた本もあると思いますし、解説者はそれに該当すると批判したのかもしれません。
でも、たとえそうだとしても、作者がその時点での全力を尽くして書いた限り、そこから先は読む側のリテラシーの問題なのではないかと思います。
読書は(そして、世の中で生きていくこと自体も同じですが)、清濁混在していて、その中で自分なりに、これは価値がある、これは価値がないと、一生かけて考えていく作業なのではないでしょうか。
だから、人生をかけてできるだけ、たくさんのことを知って、たくさんの人に出会って、たくさんの出来事を経験する必要があるのだと思います。
その努力もせずに、一つの本だけ読んで満足してしまう人に対して作者が救済策を与える必要が、果たしてあるのでしょうか。
そして、そういう努力をしない読者が大勢だろうという前提に立っているように見える、巻末の解説に対して、腹が立ってしまいました。
もちろん、それを言わせてしまうほど、本当に世の中は自ら努力をしない、受動的な情報の受け手であふれているのかもしれませんが・・・
と、いつの間にかメディアリテラシーの話にまで飛んでいきましたが、この本を読んで、私はそんなことを考えました。
私自身もここに書いたことを忘れず、もっといろいろな経験をして、多くの本を読みたいと思います。