たまのおいとま

めぐりあわせのおかげで海外でしばしおいとまいただくことになった会社員の冒険と発見と悟り

本の話4「八九六四「天安門事件」は再び起きるか」<前編>

今日語りたい本は安田峰俊さんの「八九六四「天安門事件」は再び起きるか」です。

 

昔、学校で見た映像で、なぜかとても心に残っているものがあります。

それは、たしか、インドで活動するマザー・テレサの様子でした。

 

一人の男の子がマザー・テレサに駆け寄り、自分は将来ジャーナリストになりたいんだ、と取材のようにカメラを向けたときのことです。

マザー・テレサが信じられないような剣幕でその男の子を叱りつけたのです。

そんなことはいいから、こっちに来て手伝えと。

 

ずいぶん前のことなので、細かいところの記憶があいまいですが、天使のようなイメージのあるマザー・テレサが怒る様子があまりにも衝撃的だったことをよく覚えています。

 

そのせいか、就活の時、ジャーナリストや学者など、「傍観者」や「評論家」になりかねないと思われる仕事を避け、できる限り現場に近い仕事を選びました。

映像を見た当時は自分がこれほど影響を受けていると思っていなかったのですが、なぜかその後もずっと、あの光景が頭を離れなかったのです。

 

私は学生の頃(たぶん今もですが当時はさらに)冷めていて、他人事のようにまわりを眺めることが多かったので、その男の子の姿が自分に重なったのだと思います。

自分が同じことをして怒られる姿が容易に想像できました。

マザー・テレサの思いがけない怒りに、画面の中の男の子と一緒に震え上がったのだと思います。

 

当事者の立場に立って経験することなく、何かを批判したり、状況を憂えたり、こうすべきだと提案したりすることに慣れると、往々にして、それは今まさにその問題に直面していて、誰よりその問題に向き合っている当事者の気持ちからかけ離れた議論になっていきます。

 

当事者が抱える苦しみ、願い、相反する感情、葛藤、そういうものから離れて、真の学問や報道ができるわけがないのに、考えたり、伝えたりすることに必死すぎて、それを忘れてしまうのだと思います。

 

今思えば、マザー・テレサは、男の子が誰かに伝えることをやめろと言っていたのではなく、自分が経験してからそれを伝えろ、そのために、まずは一旦カメラを置け、と言いたかったのかもしれません。

 

どうしてこんな話を長々書くかというと、本を読んでいると、たまに、こういうことが分かっていると感じる、真の報道や学問ができる著者に出会えるからです。

今日紹介する本の安田さんがそのうちの一人です。

 

他に私がそういう著者だと思う方には、「北朝鮮へのエクソダス」のテッサ・モーリス・スズキさんや、「沈みゆく大国アメリカ」の堤未果さんがいます。

 

その特徴は、自分の立場にとらわれずに丹念に情報を集め、でもその一方で、誰よりも真摯に問題意識を持ってその答えを探し求めていることにあります。

 

そうして得た情報は、情報単体で価値があるだけでなく、その情報から自然と問題の構造が浮かび上がってくるようで、読んでいるとまるで、鋭い切り口で編集された一つながりのドキュメンタリー映画を見ているような気持ちになります。

 

いやあ、良い著者を見つけて嬉しいです!

でもあまりにも褒めたたえていたら、長くなってきたので、この本自体の感想については、後編で。