たまのおいとま

めぐりあわせのおかげで海外でしばしおいとまいただくことになった会社員の冒険と発見と悟り

マンガの話「鬼滅の刃」⑤

そういう、何かと向き合って賛否両論ある答えを出そうとするとき、それを乗り越える解決策は、誰かを傷つけたり、疲れさせたりすることに耐えられるようになることではないんだと思います。

 

そういう状況を自分の中で許すことに寛大になれば、簡単に強くなれます。

そしてそういう強い人だけが生き残るかもしれない。

 

でも、そうではなくて、周りの人を名実共に大切にしながら、それでいて一次元上の方法を考え出す。

それは信じられないほどつらいことだけど、あきらめるなと小鉄くんは言いたかったんじゃないかなと思います。

 

炭次郎の頑張り方を見れば、それを実現する方法も分かります。

常にもっと良い方法があるはずだと信じて、頭で考え続けること、心優しい自分の気持ちをあきらめないこと、結局その2つだけなのだと思います。

 

優しいからこそ、強くなってほしい、というのは、よく言われる、「熱い心と冷たい頭」にも通ずるかもしれません。

 

優しさを持ったまま強くなる、そういう人に私もなりたいなと思いました。

                                 完

マンガの話「鬼滅の刃」④

よく読めば、さっき引用した言葉も、「まだ解くことが出来ないでいる問題」を解かなければうそだ、と言っているのではなく、そのために「骨を折らなくてはうそだ」と言っています。

 

それが例え骨折り損のくたびれもうけだったとしても、それは骨を折っていることには間違いないのだと思います。

 

鬼滅の刃のおかげで、小鉄くんのおかげで、一度読んだ本の解釈が広がって嬉しいです。

 

そういえばもう一つ逆に、アニメでは印象に残らなかったのに、マンガでは印象に残ったセリフがあります。

 

今度は小鉄くんが炭次郎に言ったセリフで、そんな心優しい炭次郎くんだからこそ、もっと強くなってほしいんだ!誰よりも強く!的なセリフです(ちょっと正確ではない)

 

何だかこれを読んだとき、なぜだかすごく感動してしまったのを覚えています。

 

優しい人は弱い、というイメージがどうしてもあります。

戦っていても、傷つける相手のことを想ってしまうから、一緒に戦い傷つく仲間を想ってしまうから、どうしてもそれを考えない人より弱くなります。

 

だからこそ、小鉄くんは、炭次郎に人よりも技術そのものを磨いてほしかったし、戦う術を、新しい画期的な方法を身につけてほしかったんだと思います。

 

これはたぶん、仕事や日常生活でも言えて、炭次郎のように生死は関わらなかったとしても、誰かと一緒に何かをしようとしたとき、何か一つを決めることが誰かを不利にしたり、誰かの功績を否定したり、何かをやることにしたことが誰かを限界まで働かせることにつながってしまったり、そういう状況はありうるんだと思います。

                               つづく

マンガの話「鬼滅の刃」③

それはたぶん、世紀の偉業なんかじゃなくても良くて、ほんの小さな世界の、ほんの小さな変化でもいい。

ある会社のある仕事のほんの少しの進歩でも構わない。

 

もしかしたらその人は、人と比べれば劣っているように思えることもあるかもしれない。

 

それでも、これまで人類が挑戦してこなかったことに挑戦して、何か一つでも今ないものを積み上げて、それが長い目で見れば失敗だったり、後戻りだったとしても、それが失敗で後戻りだということを人類が知る機会を作る。

 

きっとそれを見た誰かは、もっと良い方法がないか探すし、もしかすると、才能あるその人にあきらめない、燃えるようなやる気を与えたのは、失敗した、才能のない誰かかもしれない。

 

そう思うと、自分が今どんなにだめだと思ったとしても、前向きな気持ちになれる気がしました。

 

世界は、歴史に名を遺す有名な発明家だけが作ったものじゃない。

無数の、無名の誰かの工夫や失敗でできている。

 

最初に「君たちはどう生きるか」を読んだときは、何かきっとものすごいことを人生で成し遂げなければ!と思ったような気がします。

でも今は、たぶん、そうじゃないかも、と思えてきました。

 

そう考えると、人生でダメなことは、大したことをやらないことではなくて、目の前の課題に一生懸命向き合わないこと、自分で自分をあきらめてしまうことなんだろうと思います。

                                つづく

マンガの話「鬼滅の刃」②

マンガを読んだときはあんまり印象に残らなかったのですが、アニメを見た時に強く印象に残ったセリフがあります。

 

一言一句は覚えていないけれど、今クールやっていた刀鍛冶編で、炭次郎が小鉄くんに言ったセリフです。

自分には才能がなく、大した刀を作れないと嘆く小鉄くんに炭次郎が言った、自分自身が例え刀を作ることに直接は役立たなかったとしても、自分の子孫はすごく才能があるかもしれない、だから自分の人生を無意味と思うなというようなセリフです。

 

自分に才能がなくても、自分が直接良い刀を作れなかったとしても、一生懸命生きていれば、何かしら役に立てることがあるかもしれない。

私はちょっと拡大解釈をして、もし小鉄くんが誰とも結婚せず、子供もできなかったとしても、小鉄くんの存在が、里に良い影響を与えて、良い刀を作る環境を整えるかもしれない、そういう貢献の仕方も含まれているんだろうなと思いました。

 

それは鬼滅の刃という作品全体できっと作者が伝えたかったことと同じで、一人ひとりの力が、そのつながりが、大きな力になって未来を動かす、だから今をあきらめるな、どんなにふがいない自分も何の役にも立たないと思うな、そういうエールなんだと思います。

 

アニメを作った人たちは、きっとそれをくみ取って演出をしたから、心に残ったんだろうなと思います。

 

これまた拡大解釈かもしれないのですが、以前紹介した、「君たちはどう生きるか」をなんだかとても思い出しました。

 

骨を折る以上は、人類が今日まで進歩して来て、まだ解くことが出来ないでいる問題のために、骨を折らなくてはうそだ。(p.95)

                             つづく

マンガの話「鬼滅の刃」①

先日、ついに鬼滅の刃を全巻読みまして、良い話だったなあとしばらく余韻にひたっていました。(ネタバレの宝庫です。注意!)

 

一番いい話だなと思うところは、一人ひとりの力は少なかったとしても、それが連綿とつらなっていって、大きな力を発揮する、というところだったと思います。

 

鬼舞辻はまあもうほとんど無敵で、どうやったって人間一人の力では適わず、柱も何人も死んでいったし、なんと平安時代から!?大正まで、何世代にも渡る戦いの歴史があって、多くの人が志半ばで、でもなんとか次の世代にたすきをつないで、やっと勝利を得ることができました。

 

最後の戦いでも、お館様や、胡蝶さんや珠世さんが自分の身を犠牲にしながら、でもそれが最後まで大きな力になって、その上に柱たちや炭次郎、カナヲ、伊之助、善逸がとどめを刺すという場面がたくさん出てきます。

 

炭次郎自身も、最後の瞬間まで、お父さんに習ったこと、先祖が縁壱から教えてもらったことに気づきを得て、成長しながら戦い抜きます。

 

その場で戦っている人たちの肩に、多くの人の力がのって初めて勝てたことが繰り返し表現されています。

 

また、鬼滅の刃の終わり方がいいのは、倒して終わり、というのではなくて、その何十年後の現代の話まで書いていたところだと思います。

 

炭次郎たちに似ているような似ていないようなキャラクターたちや子孫も残せず無念にも死んでしまった人の生き写しのようなキャラクターが現代で平和に暮らし、過去を想い、今を大事に生きていく様子が、きっとこの先も世界のどこかで続いていく、そんな、都合のいい話かもしれないけど、でもあるかもしれないと思いたくなる、そういう終わりが素敵で報われたような気持ちがしました。

                              つづく

省略の文化 ④

エスカレーターの方を指して話すとき、日本人は自然とエスカレーターにいつもはない何かイレギュラーが起きたのだ、だからそれを伝えようとしているのだと思います。

いつもと同じように稼働しているエスカレーターについてはそもそも話題にする必要がないからです。

 

それに対して、それも含めて言葉のキャッチボールをするというか、エスカレーターあるよ、使ってね、ありがとう、それだけで会話として十分認められているのだと思います。

 

文字数の限定があるなら、立入禁止、と書くよりも、芝生養生中、と書く方が情報量が多くて、どちらを残すかと言えば、立入禁止、ではなく、それを含んだ芝生養生中、を選ぶのも、ものすごく日本語らしいと思います。

 

でもそれは、よく言われる、曖昧さを好むということではなくて、相手が知りえない情報、イレギュラーな情報に注目し、重視して、それだけにそぎ落とした会話をしているとも考えられるのではないかと思います。

 

電車の中も、街中も、香港は日本よりどこかざわざわしていて、常に何かしらの音が聞こえています。

ケータイをマナーモードにしなくても一日中過ごせるような感じです。

 

そのざわざわを作り出しているのは、別に香港人がおしゃべりだからじゃなくて(いやある意味でおしゃべりなのだが、日本人のおしゃべりな人ほどの中身がない?)当たり前の会話かもしれないと考えるのも、あながち間違いではない気がします。

 

知り合い同士でいるけど会話しない、ということが日本ほど起こらない気がするからです。

 

どちらがいいかと言われると難しいですが、たぶんその時の気分で、当たり前の会話がうっとうしく感じることもあれば、当たり前以外を話さないといけない会話が寂しく感じることもあるのだと思います。

 

どちらにも良さがあって、その両方を体感できたのは幸せなことだったなと思います。

                               完

省略の文化 ③

芝生の話でどうしてこれを思い出したのかというと、日本人のコミュニケーションの暗黙の了解を自覚し、それとは違う世界があることを実感する機会だったからです。

 

日本語のコミュニケーションは、いかにお互い知っている当たり前以外のことを話すか、ということを常に考えている気がします。

 

相手の知っていることを改めて話すことに価値を見出さない文化というか、そういうところがあるのに対し、香港人の会話は、当たり前のことを確認しあうようなところがある気がします。

 

というのもスーパーで買い物をしていたとき、香港人の見知らぬおばさんに、確か広東語で「これ、たっかいわねー」と話しかけられ、「高いねー」(中国語普通話)と答えたらおばさんは満足そうにうなずき、なんだか分からんが会話が成立したということがありました笑

 

残念ながら、私は香港で、中国語の普通話(北京語)の勉強をしていたために、勉強すると混ざってしまう広東語は勉強できずに終わり、広東語で現地の人と会話する機会はほとんどなかったので少ない例ですが、「当たり前のことを確認しあう」のが香港人にとっての会話、と考えると思い当たる節がいろいろありました。

 

日本人同士の会話なら、当たり前のことほど話さず、それ以外のことだけで会話をしている気がします。

だから話すことがないときは結構あるし、雑談をすることへのハードルも高いのではないでしょうか。

 

香港人は見知らぬ人同士でも、そうでない人同士でも、とにかく長々とよく話しています。

たぶん、その会話の中身はそんなになくて、今日も暑いね~、暑いよね~と事実を確認しあう言葉がたくさんある中に、日本人が会話するようなこともたまにある、というような感じがするのです。

                              つづく