たまのおいとま

めぐりあわせのおかげで海外でしばしおいとまいただくことになった会社員の冒険と発見と悟り

努力とは何か<後編>

技術や知識を習得するには、努力が必要。

ただし、努力さえすれば、誰でも、どんなことでも、人並みにはなれる。

努力とは、「やり続けること」で、最低限必要な時間の量は2つの要素に左右される。

1つは、才能。もう1つは、やり方。

 

才能のことまで書きました。今日はその続きです。

 

やり方が時間を左右する。これは感覚的に分かりやすいと思います。

世の中には、効率的なやり方についてのHow to本が山ほどありますね。

 

例えば、何か資格試験を受けようと思ったとき、問題集や参考書を買ったり、塾に通ったりします。

もしこれらを全くしないで、インターネットの情報を漁ったり、友達から教えてもらったりするだけで対策しようとしたら、できなくはないけれど何倍も時間がかかることは、容易に想像できます。

 

問題は、世の中にあふれる情報から、何が本当に効率的なやり方なのかをどうやって見極めるかですが、

そのためには、①お金を使うか、②良い人にめぐりあうか、③良い直観を持っている(=効率的なやり方を見つける才能がある)か、の3つだと思っています。

 

①の例が、先ほど書いた問題集や参考書の購入です。

本が出版されて売れているのですから、本当に良いやり方である可能性は高いでしょう。

ただ、それ相応のお金が必要になります。

予備校などに通うのも同じです。

 

②の例は、ちょっと前に実写化で話題になった、ビリギャルです。

彼女は良い先生に巡り合い、正しい方法で努力したことで、現役で慶応大学に合格できるまでの学力を手にしました。

 

もっとも、確かその先生は予備校で出会った人だったような気もするので、そうなると①とかぶりますね。

でも、純粋に人に出会うだけなら、運の良い人であれば、家族や友達、知り合いなどで、身近に無料で助けてくれる人がいる場合もあるでしょう。

 

最後の③は、前回話していた才能の考え方を思い出すと分かります。

運動神経や、物分かりの良さ、というのが直観次第ならば、

何となくやっていたことが効率の良いやり方だった、という人もいるはずです。

もちろん、この直観も、何度も効率的な方法を探そうとして何度も失敗しているうちに現実と一致してくるので、後天的にこの力を得た人もいます。

 

それにしても、ここまで書いてきて思うのは、社会的経済的に成功する人が、世代を超えて引き継がれるのには、やはり理由があるということです。

才能が遺伝するとすれば、努力の時間を短縮するための「才能」と「やり方」は全て、親の力で何とか出来てしまうのです。

 

でも、その一方で、「才能」と「やり方」はショートカットの道具でしかありません。

時間さえかければ、同じ成果を出すこともできます。

反対に、いくらショートカットしたところで、努力を続けることを怠れば、人並みにも至らないこともあります。

 

また、限られた時間で成果を出すことを考えたとき、どうしても「才能」と「やり方」のあらゆる要素を総動員しないと、たどり着けない場所もあります。

その例で、最も分かりやすいのは、オリンピックの金メダルです。

 

これが、誰でも、どんなことでも、「人並みには」なれる、と注をつけている理由です。

人生という限られた時間で、世界で一番ほどの技術や知識を得たいと思うなら、いくら頑張ったとしても、才能が少し足りなかっただけでその高みにほんの少し手が届かないこともあると思います。

 

もっとも、オリンピックのような、この場所・この時での成果が問われる場合には、運も関係するので、そんなに単純な話ではないのでしょうが・・・

 

その酷な現実を思えば、よく言われる、「私には才能がないから~」とか、「私には向いてないから~」という言葉は、ちょっとおこがましいように思えてしまいます。

 

人生の全てをかけて、世界の一番に手を伸ばしたにも関わらず、自分ではもうどうにもならない少しの才能の差で手が届かないことを思えば、

人並みになりたいと思った時、最初のスタートの位置が多少前か後ろかなんて、ほとんど誤差でしかないと思います。

 

それでも、挑戦することをあきらめるなら、それは才能がないから仕方ないのではなく、本当はただ、自分自身がそれほどやりたいと思っていないというだけのことです。

 

というのが、私なりの仮説です。

次回は、実際、この仮説に則って生きてみてどうだったのか、という話を書きたいと思います。