恩返しの話
今まで、恩返しをするというのは、もらったものをそのまま返すことだと考えてきたように思います。
でも最近、それは違うのかもしれないと思い始めました。
というのも、これまでの人生で、私にたくさんのものをもらったのにまるで返せていないと思う相手は、両親や祖父母、大学の先輩や、会社の上司など、圧倒的に人生経験も知識も、持っているものも自分より豊かな人たちだからです。
そんな人たちに、私がもらったものをそのまま返せるわけなんて、最初からなかったのです。
それでも、私は長い間、いつか自分が大人になったら、これまでもらってきたものを全部返すんだ、と意気込んでいました。
そうして実際に20歳を過ぎ、就職し、自分で自分を養うことができるようになって、一応大人の仲間入りを果たした今、そんなことは最初から不可能だったのだと知ると共に、恩には別の返し方もあるのではないかと思い始めました。
仕事で知り合った方の記事に、return forwardという言葉を見たことがあります。
戻すイメージのreturnと、前へ向けるforward、不思議な言葉の組み合わせが印象的でした。
意味は、上の世代にもらったものを、下の世代に返す、ということです。
一番単純なシチュエーションで言えば、いつも先輩におごってもらってきた後輩が、今度は自分の後輩へおごる、そんなイメージでしょうか。
社会人になって間もなかった私は、そんなことが本当に、上の世代への恩返しになるのかなあ、とぼんやり思ったものでした。
でも、今は、たくさんある恩の返し方の一つかもしれないと思います。
結婚したてのとき、仕事から帰った夫が両親から届いた小包を開けて数秒後に実家に電話する姿を目の当たりにして、少し驚いたことがあります。
私は実家が近かったのもあり、電話よりメールで連絡を取ることが多かったので、早く連絡して、しかも電話なんてすごいね、みたいに声をかけた記憶があります。
夫は、遠くに住んでいるんだから、ものを送ってくれた時くらい声を聞かせてあげないと、みたいなことを言っていた気がします。
その時夫はいかにも、自分の声を聞くことが両親の何よりの幸せなのだ、という感じで言っていたのが印象的で、なんだその強気な態度は!と思いながらも、初めてそういう恩の返し方もあるのかな、と思いました。
自分はそれまで、もらった「モノ」そのものに気を取られていて、同じ「モノ」を返すことに執着していたけれど、必ずしも同じ「モノ」を受け取ることが、相手にとっての喜びではないのかもしれないことに気づきました。
自分にそれを贈ってくれた相手は、自分に何を期待して、どんな将来が見たくて贈ってくれたのだろう、それを考えると、その恩をどうやって返したらいいのかも自然に浮かぶような気がします。
そして、それには決まった形はなく、幾通りもの方法をとって表れるのだと思います。
例えば、両親や祖父母には、自立して生きることそのものがまず大きな恩返しだと思うようになりました。
もちろん自立した上で、両親や祖父母が困ったときに助けられれば一番ですが、それは+αの応用編で、それが出来なかったからと言って、恩を返せなかったということにはならないし、無理に恩を返そうとして自分の生活がおざなりになるのであれば、きっと喜んでもらえないのだと思います。
そして、夫が言っていたように、元気な声や姿を見せることも恩返しになるし、離れていて、そばにいられないから恩返しができないということもありません。
そう考えると、先ほど書いたreturn forwardの話も、ようやく腑に落ちる気がしました。
もらったものそのものは、先輩や上司にとっては他愛のないものかもしれません。
それをそのまま返してもらうよりも、それを受け取ってできた前進を、今度は後輩や部下に贈ってほしい、と思う気持ちは分かる気がします。
あとはもっと卑近な例ですが、本やマンガを友達に貸したときにいつも思っていたことを思い出しました。
それは、本やマンガそのものを返してくれることよりも、感想が聞きたいということです。
借りた本やマンガを返すときに、丁重に御礼を言ってくれる人はたくさんいますが、感想を教えてくれる人は少ない気がします。
私だけかもしれませんが、貸す側としては、この本やマンガを読んだらこの人はどんなことを思うんだろう、何か考えが変わったりするのだろうか、という関心があって、貸すことが多い気がするのです。
もちろん、本やマンガを気に入ったという感想が聞きたいわけでもなくて、その人がどう感じたのか、どの登場人物が好きで、どのシーンの意味が分からなかったのか、何でも考えたことを聞きたくなります。
それがどんな感想でも、貸して良かったなあと思います。
恩それぞれの内容も、こんなふうに小さいことから大きなことまで様々ですが、恩の返し方にもいろいろあることに気づきました。
もちろん、相手が何を本当に喜ぶのかは予想でしかないし、人によっても全然違うかもしれません。
でも、そうやって分からない中で考えることに意味があるし、同じ「モノ」にこだわらないことでいろんな可能性が広がれば、本当の意味の恩返しができる確率も高まるような気がします。
思えば、いつか「本の話3」で書いた、道端のブロックじゃないけれど、身のまわりにあるものの一つ一つが、名前も顔も知らない先人たちが作ってきたもので、私たちは、毎日生きているだけで、とても返しきれない量と質の恩を受け続けているのだと思います。
そう考えると、自分が今この社会で、この時代でできることやすべきことを見つけて取り組むことも、次の世代のためになるだけでなく、先人たちへの恩返しになるのかもしれません。