たまのおいとま

めぐりあわせのおかげで海外でしばしおいとまいただくことになった会社員の冒険と発見と悟り

本の話4「八九六四「天安門事件」は再び起きるか」<後編>

今日こそは!

安田峰俊さんの「八九六四「天安門事件」は再び起きるか」の感想です!

(いつも前置きが長い)

 

この本では天安門事件を題材にしながらも、民主主義は正義で、一党独裁は悪、というステレオタイプから距離を置いて、様々な立場から見た等身大の中国を描きだそうとしています。

 

天安門事件後の30年は、中国が急速に経済力をつけていく時代でした。

一党独裁=貧しい社会、という図式が崩れ去った後に人々が何を思うのか、ということが書かれています。

それは同時に、民主主義の意義とは何か、を考えさせるものでもありました。

 

連日、香港でのデモの様子が報道されていますが、もし似たようなことが日本で起きたら、どうなると思いますか?

なかなか想像しにくいと思いますが、例えば、民主主義的な手続きによらずに裁判を行い、刑を執行することが可能になる法律が今にも成立しようとしていたとしたら、どうでしょう。

 

何度も私は考えてみましたが、どうしても想像できません。

休日になるたびに霞が関だけでなく、原宿、新宿、池袋などで同じ色のTシャツを着たデモ隊が大挙して道路を埋め尽くす様子

株価が下がったり、お正月なのにホテルに空室が増えたりしても、毎週デモが行われ続ける様子

最終的に政府が法律の撤回を認め、それでもデモがやまない様子

 

もちろん、中国と香港の関係性と、これまで起きてきた事柄の全てがあっての、今であって、そう簡単に日本に置き換えることはできません。

香港では多くの人が共通して、中国大陸からの人の流入によって起きた、生活のあらゆる変化を肌身で感じていることも大きいと思います。

 

でもシンプルに、自分が一市民としてデモに行くのか、政府の前向きな対応を信じられるのか、周りもデモに参加すると思うか、と考えると、どれも想像できないのです。

 

そう思っていた矢先、この本でこんな場面に出会いました。

 

「(社会運動について)心情的には理解できる気もするが、主張の実現は難しいだろう。表立って応援はしづらいね。ああいう主張をおこなうことが許される世の中になればいいとは思うが・・・香港は中国本土よりもずっと自由な場所だろう?彼らは多くを求めすぎている。」

 

本に出てくる人の中で、過去に学生運動に参加していたものの、現在は経済的に成功し社会的にも安定した立場にいる人の言葉です。

 

表立って応援はしづらい、というところや、中国本土よりも自由だ、という辺りは、中国人ならではの立場だと思いますが、

なんだか総論としては、日本人である自分の、冷めた視点と重なる部分を感じて、ちょっと背筋が寒くなる気がしました。

 

民主主義は、決して当たり前のものではなく、歴史的に獲得した価値あるものであり、

守るのは自分たち自身だという意識の欠落、

国は政治家や官僚ではなく、そこに住む人々自身であり、信頼できる政府であるべくコントロールするのは自分たちの責任だという意識の欠如・・・

 

私たちは本当の意味で民主主義を実践しているのだろうか―

 

こういう姿勢が欠けたとき、今まさにデモに参加している香港の人たちから見ると、どう映るのだろうか、とも考えます。

 

香港では日本のサブカルチャーや食べ物が大人気だそうですが、その一方で、日本政府への好感度を聞くと、支持率が急激に落ちるそうです。

 

例えば、香港も、太平洋戦争時に日本の占領を受けた場所です。

当時、香港ドル軍票という日本軍が発行した通貨へ交換することを余儀なくされ、戦後軍票が紙切れになると共に、所有資産の価値を一気に失った人たちがいます。

彼らは日本で裁判を起こし、敗訴しています。

 

こうしたこと以外にも、領土問題やいろいろ原因はあるかと思いますが、それらについて、もし香港の人たちと話す機会があったら、自分はどういう風に話すだろう、と考えてみます。

 

なんとなく、日本政府はこうだからね~とか、こんな話も聞くね~みたいな答えをしてしまう気がします。

それは、取りも直さず、先ほど書いた「民主主義を根底で支えるはずの意識」の欠落を体現してしまっているのではないかと思うのです。

 

それは自国の政府をいつ何時も支持しないといけないということではありません。

そうではなくて、支持しないにしても、支持できない政策を取っている自国に対してどう思うのか、というところが抜けている気がするのです。

 

なぜそういう政策を取る余地があるのか、どんな考えの対立が根本にあるのか、自分は何を変えないといけないと思うのか、そのために自分が何かできるとしたら何なのか―

 

政府が向き合っている問題を、自分事にできていない態度は、香港の人たちから見れば、かなり奇異に映るのではないかと思います。

これはおそらく、香港以外の国や地域で、民主主義を自分のものにできている人たちに対しても、同じことが言えると思うのです。

 

そして、社会の動きを自分事にできていないことは、その人となり―自分が何を考え、どういう生き方をするのかということ―にもつながっているのではないか、そんな気がしました。

例えば言葉が上手く通じなかったとしても、なんとなくその人がどんな人なのか感じようとしたときににじみ出てくるのは、そういう部分なのではないかと思います。

 

いますぐ全部はできなくても、少しずつ情報を集めて考えながら、一歩ずつ生きていくようにしようと思いました。