たまのおいとま

めぐりあわせのおかげで海外でしばしおいとまいただくことになった会社員の冒険と発見と悟り

努力とは何か<前編>

私には、暇さえあればいつも考えていることがあります。

それは、どうやったら苦しまないで努力できるのかということです。

 

どうしてそんなことを考えているのかを説明するためには、

まずは、この話の前提にある、努力とは何のことか、ということから書き始めなければなりません。

あくまで私なりに、現時点で考えていることなので、合っているかはさておき、ありのままに書いてみたいと思います。

 

勉強、語学、仕事、スポーツ、資格取得、読書などの情報収集など

ありとあらゆる技術や知識の習得には、努力が必要です。

 

ここでいう努力は、「やり続けること」だと思っています。

どんな技術も知識も、身につけるために最低限必要な時間があり、

その一方、その時間さえかければ、どんなことでも、誰にでも平等に(人並み程度には)習得するチャンスがあると思っています。

 

この身につけるために最低限必要な時間の量は、人によって異なり、それを決める要素には2つあると思います。

1つは、才能です。

その技術や知識を習得するのに向いているかどうか、ということです。

 

ここで重要なのは、

たとえ向いていないことでも、時間をかければいつかは必ず(人並みには)できるようになるということです。

 

例えば、運動神経がこの一例です。

初めてやったときから、なんとなく無意識にボールの落ちる場所にラケットを置けている、という人がいれば、

その一方で、初めてやったとき、ラケットを振った後、気づいたらボールが通り過ぎていて、空振りしてしまった、という人もいます。

 

それは、個々の人が頭の中に思い描くボールの位置のイメージが、現実とたまたま合っていれば前者になり、合っていなければ後者になる、という単純なことなのではないかと思うのです。

 

このイメージと現実の不一致を一致させていくことが、技術の習得です。

初めから近いイメージを描けていれば、そこから合致させるのに時間をかけなくて済みますが、ほど遠いイメージであればあるほど、合致させるまでには練習(努力)が必要です。

 

勉強も同じだと思っています。

昔、「エジソンの母」というドラマでこんなシーンがありました。

(毎度のことながら、細かい部分は記憶が怪しいのでご容赦ください)

 

小学校で、1+1=2という式の意味を、1個のみかんと1個のみかんを足すと2個と先生が教えたとき、ある生徒がこう言いました。

「どうして1+1は2なの?」

そう言って、みかんを2つ教壇に持ってきて、片方のみかんを半分にし、

「こうやると1+1は3になったよ」

と言うのです。

 

その疑問に答えるなら、こうなります。

「数えるときは、一度決めたルールを守って数えないといけないよね。

みかん丸ごとを1と数えることにしたら、もし半分に割ったとしても、合わせてみかん丸ごと1個と数えないといけないね。そうすると1+1=2になるよ。」

 

ドラマでは、この生徒がエジソンのような自由な発想力を持っているばかりに、先生も含めてまわりに理解されず・・・という感じで話が続きます。

確かに、俗にいう頭が良い子、とは理解されないでしょう。

 

他の多くの生徒にとっては1+1=2と考えるとき、みかんを割ろうなど思いもよらないので、結果的に1+1=2という現実とすぐに一致します。

そして、それを人は頭が良いと呼ぶのです。

 

(厳密にいえば、頭が良い、のではなく、物分かりが良いとか勉強ができるということですが、少なくとも日本では多くの場合で、このことが頭が良い、と表現されています。)

 

もちろん、発想力がある子は誰か、と聞かれたら、質問をした生徒の方でしょう。

でも、頭が良いということを上のように定義すると、頭は悪い子になってしまいます。

 

さっきの説明をしたとしても、すぐさま他の質問を投げかけてきて、1+1=2ということが納得できる(頭の中に描くことと現実が一致する)までに、かなりの時間を要することは想像にかたくありません。

 

もちろん、この生徒のような発想力があって理解できない子以外に、すぐにぴんと来ない子、というのもいます。

 

1+1=2というような簡単なことだったら多くの人は分かりますが、

例えば化学で、molという単位が出てきた途端に分からなくなったという人は多いのではないでしょうか。

これも、何を1と定義するのか、ということが分かりにくいだけで、仕組みはさっきのみかんと同じです。

 

それじゃなくても、2人で一緒に何かの説明を聞いたとき、自分はなかなか理解できなかったのに、隣の子はすぐに理解できた、という状況には、思い当たることがあるのではないでしょうか。

 

最初の直観と現実の差異が少ないことを、「才能がある」と呼び、最初の直観と現実の差異が大きいことを「才能がない」と呼ぶのではないかと思うのです。

そういうふうに定義すると、才能がないからと言って、永遠にできないということではないことが分かります。

 

直観と現実の差異があることを理解し、一致させるための正しい努力をすれば、時間がかかっても、いつかは一致させられます。

ただ、その時間の量は、その人が最初にたまたま持っている直観のある位置(現実からの距離)によって異なるのです。

 

そして大事なことはもう一つあります。

この最初に直観のある位置は、おそらく遺伝するということです。

その例は、ここで説明するまでもなく、いろんなところで目にすると思います。

 

努力しないといけない時間の量を決める要素の2つ目は、やり方です。

が、長くなってきたので、また次回にします!