本の話「鹿の王」⑦
「鹿の王」にはこうあります。
たしかに病は神に似た顔をしている。いつ罹るのかも、なぜ罹るのかもわからず、助からぬ者と助かる者の境目も定かではない、己の手を遠く離れたなにか―神々の掌に描かれた運命のように見える。…だからといって、あきらめ、悄然と受け入れてよいものではなかろう。なぜなら、その中で、もがくことこそが、多分、生きる、ということだからだ。(下巻p.466)
生き物はみな、病の種を身に潜ませて生きている。生の中には、必ず死が潜んでいる。それでも、そうして生きるしかない。かぼそい命の糸を切られてしまわぬように、懸命に糸をつなぎ直しながら。生まれて、消えるまでの間を、哀しみと喜びで満たしながら。ときに、他者に手をさしのべ、そして、また自分も他者の温かい手で救われて、命の糸を紡いでいくのだ。(下巻p.547)
確かに、生まれることも死ぬことも、湧き上がってくる気持ちを湧き上がってこないようにすることも、私にはどうすることもできないかもしれない。
でもたぶん、その中で選ぶことだけはできる気がします。
さっきの脳の反応の話で、何かに自分が悩んでいるとして、そのときいくつかの選択肢が浮かぶとします。
その選択肢の内容そのものは確かに、自分では選べないかもしれません。
自分の視野や、これまでの経験が選択肢を絞っているからです。
でも、その絞られた選択肢の中で、自分が結局何を選ぶか、最後の最後の選択はある程度、脳も手放しなのではないか、そこに自分という存在が現れるのではないかと信じたいと思います。
池谷さんも書いていましたが、よい経験をすることはできる、そうして少しずつ自分の向かう方を決めることはできるのかもしれません。
つづく