たまのおいとま

めぐりあわせのおかげで海外でしばしおいとまいただくことになった会社員の冒険と発見と悟り

本の話「噛みあわない会話と、ある過去について」②

ありとあらゆるすれ違いは、その物事に対する相手の気持ちを見誤ることにあると思います。

この物語では、それを包み隠さず相手に伝えているのだから、伝えられた相手もそれを受け止めて、自分が思っていたことを伝え、それでも、思いがけずやってしまったことだとしても、相手を傷つけたという非を認めて謝る、ということはできるはずです。

 

もちろん、そう言われたからといって、相手が許してくれるかどうかは、相手の気持ち次第ですが、少なくともそこまでやったなら、何も悔いることはないのだと思います。

(それでも何かもやもやとした思いが残るのが人情ではあるのですが)

 

ちなみに、こう考えるのは、香港にいた時出会った友達と実体験があるからです。

(そうそう、なんやかんやと時が流れ、私は「たまのおいとま」から現実に戻ってきました。)

 

事の詳細はここには書きませんが、実際にその出来事を通して思ったのは、誰にどんなふうに非難されたとしても、最後には自分が自分の行動に「私にとってはもっともな理由がある(あった)」と感じられることが大事だということです。

 

もちろん、相手が傷ついたと聞いて、自分の行動や、考えなしの言動、人格の至らなさを反省することはあると思います。

そしてその反省を受けて、次から自分の行動を変えることは必要なことです。

 

でも、その時に、そんな行動をしてしまった自分をただいたずらに忌避し、蔑むのではなくて、それも自分の一部であり、その時にはそれでいいと思った事実を受け止めて、「過去の自分」として切り離して考えることが大事だと思います。

 

「過去の自分」の罪は、もちろん「今の自分」も共同して負わなければいけませんが、だからといって、過去の自分の行動を反省して、次の行動を変えつつある「今の自分」と「過去の自分」は別の存在と捉えるべきだということです。

                               つづく