たまのおいとま

めぐりあわせのおかげで海外でしばしおいとまいただくことになった会社員の冒険と発見と悟り

楽しい努力の仕方 7 ―時間の限界を知る―

時間を測るようになって、自分に与えられた時間には限りがあるという、これまた当たり前の、でも、これまで一度も心から理解できていなかったことを、初めて心の底から納得することができました。

 

そして、悔いなく時間を過ごす上で一番大切なのは、真剣に考えて到達した自分の判断に身を投じて、何かを捨てて何かを選び、その結果を自分で受けることなのだと気づきました。

 

時間で区切ることを本格的に始めた頃、平日1日3時間の現地語の授業がない時期だったのもあって、私には時間がふんだんにありました。

 

今の生活では、食事を作ったりお皿を洗ったり洗濯したりお風呂に入ったり団らんしたり以外の時間を考えると、だいたい毎日お昼を含んで8時~18時が、ほとんど状況に左右されず自分で使い方を考えられる時間です。

 

これは、次のことをかっこ内の時間配分で全部やるとギリギリ収まるというくらいの時間です。

 

・毎日やると決めている5つの目標について、そのために必要だと思うことをする(各目標25分×2回ずつ)

・合間にゲームや手芸など好きなことをする(目標や家事50分に対して20分休むくらい)

・毎日どこかしら掃除する(ものにより10分~30分)

・週に2回買い出しに行く(その時々、1~2時間)

・2日に1回運動をする(30分~45分の室内運動か、ランニング、前後含めて1時間くらい)

・家族や友達と電話する(その時々、平均1時間?)

 

ちなみに5つの目標というのは、例えば、そのうち1つが不自由を感じずに英語を話せるようになることで、そんな感じの5種類いろいろです。

最初はこの英語1つだったのが、だんだん増えていきました。

 

こんな感じで3週間経ったある日、現地語の授業が始まりました。

それで、これまでの日常からなんとか毎日3時間を捻出しなければならなくなりました。

 

やることの中身自体はこれまでと変えずに(一つもやめずに)、3時間、時間を捻出したい、どうしたらできる?と考えたときに、自分の今までの時間に対する考え方が逆転していく感じがしました。

 

これまでは、そもそも時間を湯水のように捉えていた気がします。

 

蛇口をひねると出てくるのは、上水道が完備され、流れる水が存在するからであって、今水を出せることが決して当たり前ではないのに、水が出ない状態を想像することもなく、ひねった後今どのくらい出したのか、それが全体のどれだけに当たるのかという意識もないし、バスタブを越えてさえいなければ、出ている量を知ることを重要とも思わないという感じです。

 

自分が自由に使える時間は何時間で、何かをやることを選べば、何かを捨てざるを得ない、という感覚が、身をもって感じられていなかったのだと思います。

 

考えてみれば、毎日24時間の枠は一定で、時間を過ごすというのは、その中で何をするか選択することに他ならないのですが、その感覚が自分の中に根付いていなかったと思います。

 

睡眠時間も一定じゃないし、労働時間も一定じゃないし、やることもその時その時降ってきたものを期限のあるものから自転車操業でこなす、そういう一日(もっと言うと人生)の過ごし方をしていた気がします。

 

仕事も同じで、あながち自分がやりがいを感じられることを仕事にしているだけに、自分がそうする価値があると思うと、自分の満足がいく程度の時間をかけて物事に取り組んでいた気がします。

 

とはいえ、(今よく考えれば、こなせていなかったことがたくさんあるけど)なんだかんだ時間ギリギリでこなせている気になっていました。

そういう自分に自分で満足して、それで失ってきたものには結局のところ重きを置いていなかったのだと思います。

 

一日の時間が有限であることを明確に意識して、その上で何をやって何をやらないのか考えようとしたときに初めてそのことに気が付きました。

 

全く会社員の風上にも置けない考え方をしていた自分が、今さらながらすごく恥ずかしくなりました。

 

もっとも、会社の場合、自分が取り組んでいる業務について、どの程度の完成度を目指さなければならないのかが、組織である以上、自分だけでは決められないことが多いという難しさはあります。

 

さらには、目指す完成度の度合いを最終判断すべき上司自身、それを明確にする責任が自分にあるという気持ちがなく、どこを目指すべきか確認しても最後まで明確にならないこともあります。

 

それで結局、残業してまで完成度を上げた方が良いのか、そうでもないのかが分からないまま、とりあえず不安なので残業して完成度を上げるという選択をすることが往々にしてあります。

 

思えば、そういう上司は、部下が自分で完成度を判断することが部下の勉強になる、と考えているのかもしれません。

 

部下に判断する権限を与えて、判断が間違っていた時には部下自身が事態を収拾できる場合、もしくは、上司が部下の尻ぬぐいをする覚悟があり、実際にする場合なら、そして、そういった状況を部下も認識できているなら、それもありなのだと思います。

 

ただ現実には、不明瞭だから上司の意図を組んだつもりでやった残業代を上司その人に認めてもらえなかったり、気づくと部下一人、自分では収拾がつかない大きすぎる失敗を前にして慌てふためき、結局顧客にただ迷惑を飲ませてしまったり、上司の真意を部下がくみ取れず、一人重責を負っている気持ちになって悩んで苦しんでいたりということが、ままある気がします。

 

そんな状況に加えて、さっき書いたように、そもそも自分自身がそこまで自覚的に仕事をできていない(時間ではなく感情を基準にしている)と、そりゃまあカオスですな。

会社員人生から距離を取ったこの場所で、自分が今まで経験してきたことの構造がやっとクリアになる気持ちがしました。

 

そこまで考えて、私はふと、今は自分に100%最終決定権限がある状態なのだと気づきました。

そもそも何に時間を使うべきなのか、どの程度の時間の中で、何を目指すべきなのか、それを全部自分で決めることができるのです。

 

そこでまた、「凪のおいとま」という作品が気になって妙に心から離れなかった理由が分かった気がしました。

あの作品に触れて共感したのは、作者が描きたい一番大事なメッセージが、自分の人生の決定権を自分に取り戻そう、だと感じたからだと思います。

 

そしてそれはまた、自信とは何か、自尊心を持つにはどうしたらいいかということにもつながっているように思います。

私にはそれも足りなくて、今それに気づきかけてもがいている最中だと感じています。

悔いなく時間を過ごせるようになった先には、それらについても、また違った景色が見えるかもしれません。

 

私がこうして今気づくことができたのは、単に、考える余裕なく走り続けている時には気づかないことが、立ち止まると見えてきやすいということなのだと思います。

会社員だと自分の人生(日々の日常)を決定できないわけでは全くないし、気づくことができないわけでもないのだと思います。

 

どれだけ残業があったとしても、どれだけ家族のために時間を割かなければいけない状態だったとしても、自分がそう選択して行動するなら、自分が別のことをする時間は作れるはずです。

 

そして、改めて考えて、やっぱり残業することや、家族のために時間を使うことが大事だと思い、そうすることを選ぶのだとしても、臨む心や受け止め方はまるで違うのだと思います。

 

大切なことは、それを自分が選択したのだ、そして今選んでいることは、選んだ時点でのベストであって、自分の置かれた状況や考え方が変わった時にそれを変更する力・権限は他でもない自分にあるのだということを自覚しているかどうかなのではないでしょうか。

 

そして、私がやっとこのことに気が付いたのがたまたま今だっただけで、世の中には既に、とっくの昔にこれを理解して、自分の人生を強く生きている人たちがいるのだろうと思います。