語学の突破口らしきもの
正直、英語も満足に話せないのに、第二外国語を真面目に勉強するなんてばかげていると思っていました。
英語すら話せないのに、他の言語が話せるようになるわけがないし、英語はもうかれこれ20年は勉強しているのにできないんだから、他の言語にはまた20年を費やし、その上話せるようになんかならない、そう思うと、今やろうとしていることは全く意味がない無駄な時間だと思っていました。
でも、実際に真剣に現地語を勉強し始めて、その考えがちょっと変わってきました。
英語で第二外国語を勉強したことで初めて、言語を学ぶということがそもそもどういうことなのか分かった気がしたからです。
現地語の授業は英語で進められるのですが、訳す、ということをほとんどしません。
例えば、先生はよく、授業で話の流れで出てきた、教科書に載っていない単語や文章を、ただただ箇条書きにしたプリントをくれます。
でも、それに英語訳は載っていません。
教科書には個々の単語の英語訳は載っていても文章の英語訳はありません。
宿題にも、英訳したり、現地語訳したりする問題が全くないんです。
あるのは、穴あきの文章があって、単語例の中から適切なのを選んで埋めるとか、指定された表現を使って会話の空白部分を埋めるとか、そういう問題です。
授業中も、英語での説明よりも、先生が現地語で生徒と会話するように質問する時間が多いです。
例えば、休日は何をするのが好きですか?とか聞かれて、生徒は本人の本当の趣味を答えます。
現地語の単語が分からなければ、英語で先生に聞いて、それを使って答えます。
現地語で何と言うのかを聞く聞き方や、相手の言ったことが分からなかった場合の聞き返し方は、かなり早い段階で教えてくれます。
生徒が慣れてきたらそれを使って現地語で質問することもあります。
そうやって練習した単語は本当にすぐ頭に入ってきます。
それこそ、その日授業の後に1回復習すれば頭に入って使えるくらいです。
英語の単語暗記で苦労していた私は、本当に驚きました。
どうしてだろうと考えているうちに、それは、頭の中のイメージ(情景)と言葉を結びつける回数が多いからなのでは、と思いました。
休日は何をするのが好きか、と聞かれたとき、頭の中では自分の休日が思い浮かびます。
そして、ベッドに寝転がって小説を読んでいる情景が浮かんだとします。
その段階ではまだ、頭の中に言葉は出てきません。
その情景が頭に浮かんだ時に、学ぼうとしている言葉だけをスムーズに出せることが、その言語を話せるということなのだと気づきました。
そしてそのためには、その成功体験をできるだけたくさん積み重ねる必要があるのですが、たいてい学ぼうとしている言葉よりも、母語が先に思い浮かんでしまうので、それをどうにかいったん忘れる必要があります。
なぜ忘れないといけないかというと同じ情景を言葉にするやり方や言葉にする順番が言語ごとに全然違うからです。
日本語の場合は、まず「小説」という行動の対象を見つけて言葉にして、目的語だという気持ちで「を」をつけます。
その後、「読む」という言葉で行動を表します。
英語の場合は、まず行動を「read」と言う言葉で表して、いろんな小説というイメージを持って「novels」とつけます。
この時、特段目的語だと示さなければ、という気持ちはどこにもありません。
それは、文章の順序だけで十分感じられるからです。
さらに別の言語では、小説という単語すら使わない言語もあると思います。
「小説を読む」を一つの単語で表せるのなら、日本語のように、何を「読む」のか言わなきゃと考える必要もなければ、英語のように、特に決まった小説というわけじゃなくて、小説というカテゴリーなら何でも読むなあ、だから複数形で言おう、などと考える必要もないのです。
私たちが日本語を話すときに、わざわざ英語で一度考えたりしないように、ネイティブの人は、自分の頭の中に浮かんだ情景を説明しようと思ったときに、他の言葉を一度頭に思い浮かべることはしません。
でも、ネイティブでない人たちは、自分の言語を使うことに慣れすぎて、考える間もなく、口にしたい言語ではなく、自分の言語で先に表してしまうのだと思います。
その結果、どうなるかと言うと、頭の中に浮かんだ情景ではなく、そこから自分の言語で言葉にしたものを、さらに、口にしたい言語に翻訳しようとするので、時間がかかるし、こんがらがって結局なんて言えば良いのか分からない、という状態に陥るのだと思います。
例えば、これまでの日本語と英語だけの世界だと、私の頭の中はこんな感じでした。
情景→日本語→英語
頭の中である情景を浮かべると、無意識に日本語が出てきてしまいます。
母語だけでの生活期間が長いと、ほとんどこれは避けられないことだと思います。
でも、ここで、情景→日本語→情景→英語となっていればまだ良いのですが、私の場合、無駄に単語の暗記だけはしているので、日本語から英語に直接直す方が、情景をもう一度頭に思い浮かべてそれを英語で表現するより早くなってしまうのです。
例えば、「目覚ましが鳴って、驚いてぱっと起き上がる」という情景を思い浮かべたとします。
日本語で「すぐに」という言葉が浮かびます。
「すぐに」という単語で手っ取り早い訳→soonだ!となってしまうのです。
本当は、soon以外にも、at onceとか、immediatelyとか、instantlyとか、right awayとかいろいろあります。
でも、会話しようと急いでいるときにそんな時間はありません。
というわけで、一番手っ取り早いsoonが口から出てくるのです。
でも、本当は、soonは、See you soon!などと使われるように、ちょっと時の経過があるイメージです。
目覚ましを聞いて飛び起きるようなときはat onceとかの方が適切です。(たぶん)
頭の中で浮かんだ情景と合わない単語を使ってしまうのは、コミュニケーションにおいては致命的です。
今の例も、本当に目覚ましをすぐ止めて起きたのか、目覚ましがなったけど、しばらく起きなかったのか、よく分からなくなります。
それによって、相手の返答も、「目覚ましの音そんなに大きいの?」になるのか、「遅刻しなかった?」になるのか、その後の会話が全然違います。
話した方は話した方で、自分の意図したニュアンスで受け取ってもらえなかった場合、なんでそんなこと聞くんだろう?面白い人だな、みたいなことになりかねないのです・・・
これは、まさしく私が英語を使う時に日々感じる違和感そのものでした。
言葉を話そうとするとき、自分の頭の中でこういうことが起こっているということを、鮮明に理解できたのは、英語で現地語を習ってみたおかげでした。
というのも、英語で現地語を習うと、頭の中がさっきよりもっとややこしいのです。
1つの情景をめぐって3つの言語が飛び交うことになってしまいます。
情景を日本語で表したり、それを英語にしたり、というのは、一瞬すぎて自覚できなかったのですが、現地語が混ざって頭がこんがらがって初めて、そういうことか、と思いました。
例えば、先生から質問されたとき、これまで通り日本語を介在させているとこんなことになります。
現地語→情景(休日の過ごし方)→日本語→情景(読書)→日本語→現地語
でも、考えている途中で先生の英語の説明があり、さらに自分が言いたい「読書」の現地語が分からず質問する場合、こうなります。
現地語→英語→日本語→情景(休日の過ごし方)→日本語→情景(読書)→現地語(?)→情景(読書って何ていうの)→日本語→英語
だんだん、大変すぎて、頭が無意識にあきらめて日本語を省略し始めました。
日本語さえ抜かして、英語から直接情景をイメージすれば、だいぶ楽になるからです。
その結果、英語→情景→現地語というのが行き来する比較的シンプルな世界になりました。
これはそのまま、英語を使う練習にもなっていて、ありがたいと思います。
では、日本語と英語のように、現地語と英語の世界がまた構築されてしまうのか、というとそうでもありません。
というのも、英語と情景の結びつきが弱いので、現地語を英語で訳されても、日本語ほどクリアで明確な情景は浮かばず、うーん、何となくこんな感じ?程度です。
それで結局、現地語だけでいろいろ言ってみて先生の反応をうかがうことになるからです。
というわけで、言語を学ぶときに本当にしなければいけないのは、頭の中に浮かんだ情景と、その自分にとって新しい言語とを、自分の母国語を介在させずに直接結びつけられるようになるための練習なんだと、本当の意味で理解することができました。
そう考えると、授業で英訳をほとんどしないことの意味も、自然と自分の本当のことを話すように促されることや、先生との会話の回数が多い意味も、よく分かりました。
英語が母語に近いレベルの人にとっては、英訳しすぎてしまうと、現地語の細かいニュアンスを理解することがおろそかになってしまうのだと思います。
本当のことを話すのは、嘘の情景を頭に思い浮かべて話すのは無駄に頭を使うし、感情を伴わないので、頭に残りにくいからではないかと思います。
情景が頭に残りにくいのであれば、それと言語を結びつけるのは、もっと大変になってしまいます。
教科書の会話はどんなに勉強してもすぐ忘れちゃうのは、今でも変わりません。
でも、先生の質問に対して生徒が面白い答えをしたことはすごくよく記憶に残っています。
そうやって授業はいつも、大喜利大会のようになるのですが、次先生に質問されたらこう答えると友達を笑わせられるかも、と思って頭の中で組み立てた言葉も、強烈に記憶に残ります。
先生は、実際の事例を示して話をすることも良くあります。
教室から駅までの距離や、大学に実際にあるレストランの数とか、扉を開け閉めする動作をしながら、それを現地語で説明するとか、前後左右を指す言葉を教えるときに、実際に生徒を座らせて、どこに誰がいるか言わせるとか、そんな感じです。
でも、それも考えてみれば、ヘレン・ケラーに水を実際に触らせて、Waterという言葉を教えたサリヴァン先生と全く同じだな、と思いました。
視覚や聴覚を失い、世界との接点を失ってしまったヘレン・ケラーは、情景が頭に浮かびにくくなっていたはずです。
それを、冷たい!という強烈な触感を通して、頭の中のイメージを強くし、言葉と結び付きやすいようにしたのだと思います。
前にマレーシアに行ったとき、現地の人がありとあらゆる言葉を気軽に話すのに驚いたのを思い出します。
様々な国の人が行き交い、暮らす街では、日常的に観光客や周りの外国人が使う言葉に耳を傾け、その場の状況と結びつける、という作業がしやすいのだと思います。
外国語を話すことが特別なスキルでないと考える人がいたり、いとも簡単に身につけているように見えたりするのも、うなずけます。
反対に、この情景と言葉を結びつけるという作業を、机の上で一人でやるのはよほど工夫しないと難しいし、言葉の数は膨大で、しかも日々増えていきます。
一生懸命勉強しているのに話せないという挫折感があったのも、当然かなと思いました。
このことに気づいてから、英語の勉強の仕方も少し変えました。
情景からかけ離れて、日本語と強固に結びついている英語を、一つ一つ引きはがして情景と結び付け直すという、途方もなく労力のかかる作業を始めたのです・・・
もっと早く気づきたかった・・・でも、おかげで前よりは進歩しているような気がします。
例えば、最近は英語字幕で英語の映画を見るというのを始めてみました。
これも日本語字幕で見たら逆効果ですが、英語字幕で見れば実際の会話のスピードでイメージと言葉を結びつける練習になるかも、と期待しています。
まだ上手くいくかは分かりませんが、挫折感しかなかった語学の勉強に、少し光が差した気がしました。