楽しい努力の仕方 8 ―優先順位をつける― <前編>
時間を測ることで気づいたことは、まだ他にもありました。
それは、優先順位をつけるというのはどういうことか、という問題です。
これも当たり前のようで難しい、今まで私がよく分かっていなかったことです。
一日の時間の総量と、個々の行動にかけている時間が分かり、24時間は自分の判断に基づいて使うべき時間であると自覚できた時、私には何をすべきか(自分はどうしたいのか)が明らかに分かるようになりました。
私は、テストが頻繁にあって復習が不可欠の現地語以外の、4つの目標のためにかける時間を全て、25分×2回から25分×1回にしました。
これでだいたい3時間です。
家事や運動だって、やろうと思えば減らせるかもしれませんが、それは選びませんでした。
それらが自分にとって、より重要なことだと思ったからです。
それに比べ、5つの目標については、一日にやる量を多くすることよりも、少なくても毎日続けることの方が大事と割り切りました。
そうして1か月が経ちました。
ここでまた私は迷うことになりました。3段階目の飽き状態です。
始まりは現地語の勉強でした。
1回あたりの時間を短く切ることで飽きるのを防ぐことが大事、とこれまで書いてきましたが、いくら刻んだところで、総量が多すぎました。
授業に復習・宿題・テスト勉強を入れると、私の10時間の可処分時間(?)の中で、優に4時間ほど、40%ほどを毎日占めていました。
毎日これだけの時間授業を受けることを選んだ以上、ある意味仕方がないことですし、選んだことを変えたい(受講をやめたい)わけでもありません。
他のいろいろなこともやりながらなので、授業以外で現地語にかける時間は、もともと25分~35分程度でした。
復習もテスト勉強も、話せるようになるという目的が達成できること、次のレベルのクラスに上がれる点数を取ることを目標に、最低限に留めていました。
他の友達が宿題一つに1時間かける中、私がかける時間は10分でした。
そうできるように、授業は真剣に聞き、話し、思いついた質問は必ず聞きました。
少なくとも、自分では自分が上手く最小限度の時間でやっていると思っていました。
確かに、同じことを短い時間でやるという意味では、一番効率の良いやり方をしていたと思います。
でも、そこから先にもう一段あることに気づいていませんでした。
状況は、既に2段階目の飽き状態に至り、現地語にまつわる全てのことに吐き気に似た嫌気を感じるという状態でした。
それまで、現地語を自分も少しは勉強したいという夫に、夜ご飯を食べながら自分の勉強も兼ねて遊び半分で教えていたのですが、それすら時々気が重くなるほどでした。
でも、だからといってさっき書いた状況を考えると、もうこれ以上何を変えることができるわけでもないという確信に似た思いがあり、私はあきらめていました。
そうして特段手立てを打たず変わらぬ毎日を粛々と過ごしました。
それがまた事態を悪化させました。
そういう毎日が1か月くらい過ぎた頃、ついにもう何のやる気も起きなくなりました。
現地語の授業はかろうじて受けるものの、ひどいときはスマホでゲームをしながら聞き、料理も作りたくないし、運動ももうしたくない。
「集中」アプリのホーホケキョ!という音すら、聞くと胃がむかむかする。
だからといって本が読みたいわけでも、クロスステッチがしたいわけでもない。
愛してやまないはずのゲームすらも!!なんの面白みも感じない。
本やゲームに至っては、データで買える時代ですから今手元にあるもの以外でも、クリック一つでおよそ何でも簡単に手に入ります。
でもそれを調べようという気すら起こらない。
休憩が休憩のように感じない。
やっても実際何も面白いと思わないし、その音楽を聴くだけでうっとうしく思うのに、それでもただ時間を埋めるためにゲームに手を伸ばし、心の一方でこんなことは初めてだと冷静に思っている自分がいる。
時間を区切っているおかげで中毒性があるのか、何も考えずにやることだけはあり、ほぼ意識することもなく次やることに手を伸ばす。
でも本当は、およそ自分の毎日を構成している、または新しくやってみることができるはずの、全てのことに興味がない。
友達や家族に連絡を取ったとしても、何も面白い話ができないどころか、口を開けば愚痴しか出てこない気がする。
最低限夫に当たらないようにと自分を抑えて無言になると、ため息が出るのを止められない。
夫と会話する気も起きない。
すっかり意気消沈して、無気力状態になっている私を、夫は心配してくれるけれど、それで問題の根本が解決するわけではないのも感じる。
自分の気持ちを持ち直すのは、他の誰かではなく自分にしかできないことで、たまたま誰かが助けてくれることがあったとしても、それに期待するべきではないことも、頭でよく分かっている。
自分のせいで夫に心配をかけていることが分かっているから、これ以上心配をかけたくないと思うのに、隣にいるのがものの数分~1時間というわけではないから、電話やメールのようにその間だけずっと元気なふりができるわけでもない。
その時の自分の状態を洗いざらい書くとこんな感じです。
たぶん、こんな時こそ家を出て、外に出かけて、行ったことのない場所で見たことのない景色でも見るのが一番良いのでしょうが、コロナでそうも行きませんでした。
元気な時に読んでみると、ただ自分が甘ったれているだけのように見えてしまうものですね。
でも、その時の閉塞感や見えていた視野の狭さを直視してこそ、その先にあった発見にも意味があるのかな、と思い、書き出してみました。
その時、自分が今やるべきことは、生活に新しいことを取り入れることだ、と何度も思ったし、例えばNetflixに入会して、友達が教えてくれた海外ドラマでも見るとか!など具体的に案もありましたが、実際行動に移すことはありませんでした。
そんな行動力がある時期はもう当に過ぎていたのだと思います。
一日だけ夜ご飯を作るのをやめてみたり、時間は変えずにやることを変えてみたり、いろいろ試しましたが、効果は一時的でした。
その程度で劇的に状況が改善するほど、自分にとってもう軽い問題ではなかったのだと思います。
2回くらい3段階目の飽き状態になったというのはこの時期のことです。
日によって気持ちが軽くなったり重くなったりの繰り返しからなかなか逃れられませんでした。
それでも、問題の根幹が飽きていることである以上、生活のいろんな要素を変えてみるのが有効なはずだと思って、あきらめずにもがき続けました。
いろいろ試し続ける中で、初めて安定して効果が出たのが、今やっていることの一つ一つの時間をさらに減らして、今やることを自分のその時その時の気分で選べるよう、余地を作るということでした。
その、時間を減らすにあたって初めて理解したのが、優先順位とは何か、ということだでした。