たまのおいとま

めぐりあわせのおかげで海外でしばしおいとまいただくことになった会社員の冒険と発見と悟り

本の話「鹿の王」④

これを読んで私ははっとしました。そうか、身体にとっては、病素そのものが有害なのではなくて、それが有害となるのはただ一つ、生命を脅かす存在になった場合のみなんだ、と気づきました。

「病」素、なんていう名前を付けたのは人間の勝手なセンスで、私の今の身体を作り上げている細胞の一つ一つは、そんな風にはとらえていなくて、ただ、生命を維持するということとの関係性だけが問題になっているのだと思いました。

 

もちろんそもそもその細胞に意識なんてなくて、これも確か「鹿の王」に出てくる言葉だったと思いますが、

 

ある時どんなめぐりあわせか、一人の人間の身体を作り上げることになった細胞たちが、それ自体も新陳代謝を繰り返しながら、一つの身体として時間を過ごしていき、そこに何らかの原因で限界が来たとき、つまり、死が訪れた時、「はい、解散!」と言って散り散りになって、土に還り、自然の中からやってきた彼らがまた自然の中に戻っていく、

 

科学的に言えば、一つ一つの原子になって戻っていく、C(炭素)やH(水素)が複雑に結合して体をめぐったり、体そのものを形作っていたものが、火葬されたとしたら燃えて灰になって、でも元素そのものが消えたわけではなくて、別の化合物になって、そうしてまた山の土や、川底の石や、はたまた別の人の身体か、そういったものに変わっていくということなのだと思います。

 

それが、生であり、死である、という作者の答えを見た気がしました。

 

私も家族を亡くしたばかりだったので、どうしてあんなに頑張っていたのに、あんなに素晴らしい人なのに死ななければならなかったのだろう、それに値する人なのに、どうして神様はもう少し長く生きさせてくれなかったんだろう、これが運命だというなら、そこにはどんな意味があるというのだろう、そう思っていた中で、同じく病に家族を奪われた主人公が発した「在るように在り、消えるように消える」という言葉が、一つの考え方として入ってきた気がしました。

                                つづく